それよりも、15分ほど前。
ぎい……ときしむ玄関の扉を、夏梨は体を強張らせながら、ゆっくりと開けた。
「……広いね。意外と明るいよ」
夏梨の肩越しに中を覗いたウルルが、少しほっとしたように言った。
そこは、天井から吹き抜けになったロビーのような部屋だった。
大きな天窓から、夕焼けの光が差し込み、無人のロビーは明るかった。
最も、ロビーの中は、それこそ何年も人が足を踏み入れていないのは明白だ。
蜘蛛の巣がいくつも天井から垂れ下がり、中央には巨大な女郎蜘蛛が居座っている。
打ち捨てられたようなテーブルには、うずたかく埃が積もっている。
天窓も汚れ果てているせいで、全体に差し込む夕日の光も、縞(しま)のように見えた。
「……でもきっとここ、昔はすごくキレイだったんだろうね……」
遊子が、夏梨の肩を後ろからつかみながら言った。
その遊子の熱をはっきり感じるほど、建物の中は蒸し暑かった。
夏梨の視線は、ロビーの奥の重厚なドアに向けられる。
―― もうちょっとだけ。
深入りしちゃいけない。そう思いながらも、なぜかその扉から目が離れない。
引き寄せられるように、夏梨はドアに向かって足を踏み出した。
「本当に、広いね……この建物」
何部屋通り過ぎただろう。
常に前の扉のみを開けるようにしていたから、そのまま後ろへ戻れば、迷わずロビーに戻れるはずではあった。
でも、同じような部屋ばかり通り過ぎていると、実は同じ部屋じゃないか、という錯覚にとらわれそうになる。
異変に気づいたのは、そのときだった。
「なぁ。なんか、どんどん部屋キレイになってないか?」
夏梨は、後ろの2人を振り返った。
「え?」
「……本当だね」
遊子とウルルが、部屋を見回した。
燈(あかり)もないその部屋は、日の光が差し込んでいるとは言っても、少しずつ薄暗くなってきている。
朧(おぼろ)な光に映し出されたその部屋は……まるで、新品のように見えた。
やわらかなビロードが張られたソファー。
埃ひとつないテーブルは艶々と光り、その上には書きかけの手紙がおかれている。
傍には、美しい孔雀の羽をつかった羽ペンと、インク壺があった。
「……キレイな羽」
手を伸ばした遊子が、そっ、とその羽ペンを持ち上げる。
何とはなしに紙にペンを走らせて……
「きゃっ!」
短い悲鳴をあげて後ろに跳びすざった。
手から離れた羽ペンが、床に転がる。
「遊子! どうした……」
歩み寄った夏梨とウルルは、紙を見下ろして、言葉を失って立ちすくんだ。
まるで、さっきインクにペン先を浸したかのように……滑らかな筆跡が、紙に残っていた。
「ね、ねぇ、出ようよ。この建物、やっぱりおかしいよ」
震える遊子の声に、確かにこれ以上立ち入ったらいけない、と夏梨も直感した。
「……そうだな」
出よう。
そう言おうとした時だった。
「!」
夏梨は、急に動きを止めた。
「何? どうしたの?夏梨ちゃ……」
「シッ! 今、何かの声が……!」
ぎょっ、と遊子とウルルが目を見交わすのが見えた。
「何の声もしないよ、夏梨ちゃん」
その不安をあらわにした遊子の言葉は、夏梨には届かない。
確かに今、声がした。
そう夏梨が思ったとき。
―― 誰か……。
「……聞こえた」
夏梨は、耳に添えていた手を外した。
鈴を振るような、澄んだ高い少女の声。
ヒトの声にしては、余りにキレイに聞こえる。
怖さを越えて、耳にした者を惹きつけてしまうような。
「か! 夏梨ちゃん、これ以上はダメだよ!!」
遊子が肩を掴んで引き止めるが、夏梨は無意識のうちに、その手を振り払っていた。
「夏梨ちゃん!」
その視線の先は、目の前のドアに向けられている。
―― 誰なんだ。
夏梨は、抗えないその力に導かれるように、取っ手に手をかける。
そして、きしむドアを開けた。
夏梨の後ろで、ハッ、と息を飲み込んだ二人の声が、聞こえた。
3人とも、そこに広がった景色に……恐怖さえ、脳裏から滑り落ちるのを感じていた。
その部屋は、教会に似ていた。
ロビーと同じような吹き抜けで、天窓は巨大なステンドグラスになっている。
そこから、燃えつきかけたような夕焼けの光が、ゆるゆると部屋に差し込んでいた。
そして、ロビーとの大きな違いは……その部屋が、昨日建てられたかのように、全く朽ちていないこと。
ステンドグラスと反対の壁際には、巨大なパイプオルガン。
婚姻の宣誓をするときのような、小さな舞台、教壇。
長机があわせて10ほど、規則正しく並べられていた。
ただ、3人の目を引いたのは、そんな光景ではない。
その舞台の前に、まるで引き立てられるように。
淡いピンク色の大理石で作られた、豪奢なつくりの棺が置かれていた。
台場を入れれば、棺の高さは、ちょうど夏梨たちの身長くらいはあった。
そして、その棺の、上空50センチくらいの「空中」に。
その少女は横たわり、眠るように瞳を閉じていた。
ため息が出るほどに精緻(せいち)な刺繍がほどこされた、ウェディングドレスに似た純白のドレス。
その腕には、同じく真珠色の手袋がはめられている。
華奢(きゃしゃ)な指は胸の前でゆるく組み合わせられ、長いドレスの裾から見える足は、裸足だった。
亜麻色(あまいろ)の髪は、おそらく少女の身長くらいはあるのではないだろうか。
見事な波打つ髪の流れが、少女の体を護るように、ふわりとその場に浮きたなびいている。
かつ、かつ、と音を立てて、3人は棺に近寄った。
近寄るにつれて、怖い、という気持ちがすぅ、と引いてゆく。
理由は、ただひとつ。
それほどまでに、少女が美しかったからだ。
白皙のその肌の周囲が、光にけぶって見える。
―― こんなにキレイな子、初めて見た……
これ以上のものはないと思えるほど、その少女の顔立ちは完璧に整っていた。
亜麻色の細い眉は、なだらかなカーブを描いている。
その下の瞳は閉じられているが、はっきりとした二重だということは、目を閉じていても分かった。
肌の色は透き通るほどに淡く、その頬の部分は、紅をさしたようにほんのりと赤い。
少しだけ開いた唇はつやめき、かすかに、微笑んでいるようにさえ見えた。
その耳元と胸元には、名前も知らぬ、明るい翠色の宝石が光っている。
「……天使みたい……」
われを忘れたかのように見入っていた遊子が、ため息混じりにつぶやいた。
「生きてる……?」
ウルルが、首をかしげてつぶやく。
確かに……生きているのは不自然だけど。だからといって、死体には見えない。
夏梨は気づけば、そっ、とその少女に手を伸ばしていた。
その指先が、少女の頬に伸ばされ、今まさに触れようとしたとき……
ガシッ、と青白く太い指が、夏梨の肩をつかんだ。
「いけない子供たちだね。こんなところにまで入り込んではいけないよ」
反射的に、夏梨は振り返った。
ほんの一瞬のはずなのに、それはやたらとゆっくりと感じた。
振り向いた先……ほんの10センチほどの場所に、男の、顔があった。
格好は、古めかしいスーツを着込んだ紳士。
その顔に光がさし、はっきりと顔を目にした瞬間……
「きゃぁぁあ!!」
夏梨は、声も限りに、悲鳴を上げていた。
その男のニヤリと笑った口元からは、5センチはある犬歯がはみ出し。
そして自分を見つめる目には瞳がなく、真っ白だったからだ。
「『秘密』を知られたからには、ここからは帰せないな」
ガタン、と長机に置かれた椅子を倒し、3人は後ずさった。
倒れこんだのか転んだのか、気づけば床に尻餅をついていたが、痛いとさえ感じなかった。
その時、やっと3人は気づいたのだ。
入り口の傍に立てかけられた、大量の棺に。
そのうちの一つの棺の蓋は開けられ、そして今まさに、傍に置かれたいくつもの棺の蓋が、かすかに揺れるのがはっきりと見えた。
「教えられなかったかな。この洋館は、吸血鬼……バンパイアの棲家(すみか)だと」
瞳を持たぬ、青白い肌を持つ紳士。
彼は、両手を広げ、3人のほうにゆったりとした足取りで歩み寄っていた。
その両手の爪が、見ている間にゆっくりと伸びてゆく。
見る間に、それは10センチほどに伸びた。
―― 逃げなきゃ……
でも、足が動かない。立てる、なんてとても思えないくらいに。
「逃げろっ!」
夏梨は一声叫んで、なんとか立ち上がろうと、震える足を腕で叩いた。
「だ……だめ、夏梨ちゃん……」
遊子は、焦点が合わない目で夏梨を見た。
ウルルも、その目に何も写していない。
「あ……」
棺の蓋が、次々と、床に落ちて乾いた音を立てる。
そして、そこから青白い骨ばった手が突き出す。
ビクビクともがくように蠢(うごめ)いた指が、がしっ、と棺の縁をつかむのが、はっきりと見えた。
「『こっち』に来てもらおうか」
長い、長い爪が、夏梨に向かって、ゆっくりと伸ばされた。
「ひ……」
喉元から悲鳴がせり上げると、ほぼ同時。
突然、後ろでガラスが割れる音が響いた。
「何だ!?」
「霜天に座せ、氷輪丸!!」
迷いのない力強い声が、バンパイアの声を遮って高く響いた。
直後、夏梨を襲ったバンパイアの体が、その場で止まった。
「な……に」
見れば、足が氷でその場に縫いとめられている。
見る見る間に、氷は爪先から頭まで、全てを覆い尽くした。