夏梨は、ゆっくりと振り返る。
振り返ると丁度目の前に、明るい碧(みどり)色の輝きがあった。
吸い込まれそうに大きな瞳。その中には、どこまでも澄んだ湖面のように美しい碧が湛えられていた。
碧を彩る亜麻色の睫(まつげ)が瞬くのを、夏梨は夢でも見ているような気持で見返した。
「あ、あなた、は」
花の蜜を含んでいるかのような、微笑を浮かべた口元。それが、ふわりとほころんだ。
「わたくしは、恵蓮(エレン)。緋鹿恵蓮と申します」

日番谷も、一護も、突然目覚めた王族の姫君を、ただ見上げるばかりだった。
雛森も、ルキアも、他の子供たちも、まるで時間が止まっているかのように動けない。
恵蓮は、わずかに首をめぐらせた。そして、戦いの続く邸内の気配に耳を澄ませる。
背後にある巨大なステンドグラスからの光が、亜麻色の髪や純白のドレスの上に赤や青、緑や金色の綾を作っている。
それは、白熱していたその場を一気に鎮(しず)めるほどに、美しい光景だった。
ゆっくりと、その瞳が瞑目した。
「ごめんなさいね」
瞳を閉じたまま、天井を仰いだ。

「あ……」
思わず、その場の全員が息を飲んだ。
恵蓮の背後に、数メートルにも及ぶような乳白色の両翼が、突如として出現し羽ばたいたからだ。
半透明の翼の背後には、ステンドグラスの様々な色が透けている。
羽が、細かに震えている。日番谷達には届かない風に、恵蓮の髪やドレスの裾が揺れた……
と思った瞬間、その場を満たしたのは、鈴を振るような美しい歌声だった。

「……この、歌声」
夏梨は、掠れた声で呟いた。間違いない。
―― 「誰か」
夏梨が初めてこの建物内に足を踏み入れたとき、呼んでいたその声と同じだ。


「……あっ?」
日番谷が、口元を押さえて屈みこむ。
「冬獅郎?」
斬月を投げ出した一護が、駆け寄る。
「……牙が、」
顔を上げた日番谷は、ぽかんとして自分の掌を見下ろした。
そこには、小さな二本の牙が取り残されていた。

「何なに? どうしたの?」
雛森がきょとんと周囲を見回す。その小さな唇から見えていた牙が、跡形も無く消えていた。
「まさか、この歌声……」
日番谷が頭上の恵蓮を仰いだとき、その歌声が大きくなり、一気に邸宅中に広がった。
それと同時に、周囲がまばゆいばかりの乳白色の光に包み込まれた。

がたん、と音を立てて開いた棺から、次々とバンパイアだった霊たちが姿を現した。
しかし、十一番隊にやられたはずの疵は全く無く、その口元に牙も無い。
普通の紳士や淑女の姿に戻った幽霊たちは、恵蓮に礼儀正しく頭を下げ、すうっと次々に天に舞い上がった。
カタカタ、と音をたて、壊れていた蜀台や、ヒビの入っていた机、くすんでいた窓が一気に修復され、まるで新品のような輝きを放ってゆく。
庭でドライフラワーのように枯れ果てていた薔薇が、突如鮮やかな赤を取戻す。庭に、春らしい新緑が広がってゆく。

「……これが、王族の力、なのか。信じられぬ……」
魔法のように、とでも言うのか。それとも人間のように「奇蹟的」と言い表すべきなのか。
ルキアは掠れた声で、そう呟くことしか出来なかった。
これではまるで、「創造主」ではないか。


唖然として見護るルキアの前で、恵蓮の体が、風にあおられるようにふわり、と浮いた。
そのまま、重さが無いように少しずつ舞い上がる。その髪が、肩が、少しずつ透き通ってゆく。
「お……お待ちください!」
ルキアは、とっさに声をかけた。
「なぁに」
返された声は、麗しいとはいえ、どこか少女の甘さを残している。
「貴女を助けるために、王廷から刺客が差し向けられたと聞きましたが……」
「誰も来ませんわ」
恵蓮の答えは、寄せては返す波のように、すぐに返された。
「だって、いつものことですもの」
そのうっすらと桃色に色づいた頬に、かすかに笑窪が浮かんだ。

「……ちょっと、待ってくれ」
それを聞いていた日番谷が、こめかみを押さえた。
「まさか、これはすべて、『ワザと』か?」
驚きの余りか、敬語を使うという基本的なところまで、抜けてしまっている。
「もう少し愉しみたかったけど……しょうがありませんわね」
恵蓮は、こともなげにそれを「認める」と、夏梨を見下ろす。
その微笑みは、もう背後の景色がはっきりと分かるほど透けている。

「俺たちで遊ばないでくれ……」
もらされた日番谷の声は、その場に居合わせた、全ての死神たちの本音だっただろう。
その言葉に、碧眼は一瞬、悪戯が見つかった子供のように煌いた。
そう思った時、優しい碧色の光が膨らみ、その場の全員が目を覆った。
再び眼を開けたときには、キラキラと光の残滓が残るのみ。

姿は見えないが、エコーがかかった恵蓮の声がその場に響き渡る。
「ごめんなさいね」
繰り返されたその言葉に笑みが含まれていると思ったのは、気のせいだろうか。
進み出た日番谷の上に、碧の光が降り注ぐ。
「お詫びの代わりに、あなたにこれを。いつか、必要になる日がくるはずですわ」
天井に向けた日番谷の掌の上に、ひときわ濃い碧の光が、落ちた。
見下ろすと、そこには恵蓮の瞳の色そのままの碧の宝玉が、ステンドグラスからの光に明るく輝いていた。