「まゆりんって誰だ! しかも分からねえって何だオイ!」
これ以上聞いても無駄だ、と悟ったんだろう。がっくり肩を落したジン太の腕を、遊子がそっと引っ張った。
「な、なんだよ」
途端に体を強ばらせるジン太。ていうか、こんな状況なのに分かりやすいヤツだな、ほんとに。
「ねー。あのアトラクション、今なら並ばずに乗れるよ」
こいつも、基本的な発想はウルルたちと同じなのか。
遊子が指さしたのは、巨大な鉄色の柵で囲まれた、巨大な建物。
あの中には、確か水でびしょ濡れになるので有名な、人気アトラクション「Water Wonderland」があるんだった。
確か、海面上昇で海だらけになった地球が舞台で、幻となった陸地をめぐる、スタントマンのド派手なアクションが見れるはずだった。
確かにヒトは並んでないかもだけど、この調子じゃスタントマンもいないぞ。
ここにはもう、誰も……
そう思ったとき、あたしはピタリと動きを止めた。
ぞわり、と腕と背中のあたりの産毛が、一斉に逆立つのが分かった。
―― 何だ?
ヘタに騒いじゃダメだ、と思うくらいの自制心はあった。
今パニックになってないことさえ(ある意味、みんな混乱してるかも知れねえが)、不思議なくらいなんだ。
「オイ。お前食べすぎだろ」
ジン太が、ウルルに向かって言う声が、何だか壁の向こうみたいに遠く聞こえた。
「だって」
ウルルは、もぞもぞした声で言いながら、指先を舐めている。
「腹が減っては戦はできぬって言うよ」
そうそう。戦はできないよな。
戦……?
あたしはウルルを凝視した。
もぞもぞ、とした動きで、ウルルは背中に手を入れて……取り出したのは、お得意のガトリング砲。
ていうか、どうやったら背中にそんなもんが入るんだ!
「ちょ……」
「後ろ、行きます!」
口だけは律儀に、行動は思いっきり乱暴に。
ウルルはガトリング砲をあたしの方に向けると、思いっきりぶっ放した。
機関銃みたいな炸裂音に、あたしはとっさに遊子に飛びつき、頭をかがめさせた。
立ち上る砂煙、噴煙、火の粉。
周りを心配させまい、と黙ってたあたしの立場はどーなんだ?
「ウルル! 何をいきなり……」
あたしの言葉は、あたしたちの背後を見ると同時に、断ち切られた。
ガトリング砲の連打を受け、ヒトであるはずがないほど巨大な影が、スッと消えるのが見えたから。
「虚か!」
あたしは遊子を抱えながら、ウルルとジン太に近寄った。蛇に首筋を舐められるような、気味悪さと恐怖が混じった感覚。
あの感覚をおぼえた時点でほんとは、虚だと半ば分かってた。
「気ぃつけろ!」
ジン太が、自慢のバットを空振りするのが見えた。どこから出したのか、なんて最早聞くまい。
その瞬間、視界が、さっと暗くなる。嫌な予感が足から背中に駆け上がる。あたしが顔をあげるよりも早く、
「あぶねえ!」
ジン太があたしを突き飛ばした。
突き飛ばされる前に立っていた場所に、ズン、と馬鹿でかい足が置かれた。灰色の毛が生え、巨大な爪は、刃物のようにとがっている。
獣みたいなニオイが、辺りに一気に充満した。見上げたその獣の胸には、ぽっかりと穴が空いていた。
「大物だぞ!」
ジン太が怒鳴った。その虚の体長は6・7メートルで、ヒトというより、灰色の毛と、1メートル近い爪を持つ獣みたいに見えた。
カッと開けた赤い口から、ギラギラ光る牙がのぞいた。
「あっちにも! バケモノがいるよ!!」
遊子が、震える声で叫んだ。
そっちを見ると、一瞬にして巨大な虚が現れ、ドシッ、と音を立ててこちらに歩み寄るのが見えた。
どいつもこいつも、狙ったみたいにこっちに向かってくる。10体近い虚の足音で、地面が地震みたいに揺れた。
「どうする! 数が多すぎるぜ」
「数が多いんだったら、一体ずつやるしかねーだろ!」
「夏梨! おめーは遊子つれて、安全なところへ逃げろ!」
悔しいけど、確かにあたしの虚を倒す力は、この2人に比べたら弱い。
唇を噛んだ時、目の前に立つ黒い小さな影が、ゆっくりと十数体に増えた虚に歩み寄るのが見えた。
「あ! あんた! 逃げなきゃ……!」
「だいじょーぶだよ」
あたしの声に、やちるちゃんは振り返って、ニッコリと笑った。この土壇場での笑顔は、単に無邪気だってこと以上に、慣れとか余裕を感じさせた。
「どっか、建物の中に逃げ込んだ方がいーよ。ここだと目立っちゃうし」
「お前、任せて大丈夫なのか?」
「あったりまえだよ」
ジン太の声に、やちるちゃんは平然として、そう返した。
ジン太はそんな、やちるちゃんの顔をじっと見ていたが、やがて身を翻した。
「どっか、逃げ込むぞ!」
「え、あ、おい!」
「いいから!」
言い返すヒマもなく、ジン太はあたしと遊子の腕を掴み、虚から離れて走り出した。
そして、さっき遊子が指差した建物……「WATER WONDERLAND」の入場口から、中に駆け込んだ。
入場待ちのロープが張られた場所を突っ切り、ゲートを越え、階段を一足飛びに上がると……
劇場式に段差になった観客席の中央に、「水上要塞」のレプリカが見えた。
古びた桟橋の先に梯子があって、登った先に、海から攻めてくる敵用の見張り台や通路が作られている。
水上要塞が浮かんだプールには、人がいれば乗っていただろう、水上バイクが浮いていた。
「時は未来、温暖化による海面上昇で、地球の陸地はほぼ水没してしまった!
陸地を探し続ける水上要塞のメンバーはついに、土を発見した! しかし、土を狙う他の勢力に、基地の場所をかぎつけられてしまい……!」
ここでも、ナレーションだけが、気合たっぷりに流されている。
こんな場面……水に浮かんだ、「水上要塞」にも、それを取り囲む観客席にも、人っ子一人いない、という場面でなければ、きっとワクワクしたに違いない。
「オイ、あの子1人で置いて……」
「聞いたことあるんだ、夜一さんに」
ジン太は、ゼエゼエと喘ぎながら、あたしを見た。
「瀞霊廷の幹部には、俺達よりも外見年齢は下のやつが2人いる。1人は日番谷冬獅郎。2人目は、ピンクの髪の女の子なんだってよ」
ピンクの……髪?
「それって、さっきの……」
「あんな髪の色のガキ死神が、そうそういるかよ!」
そうジン太が叫んだとき、外が大きなフラッシュを焚いたみたいな、まばゆい光に包まれた。
「なんだ……」
あたしは壁に駆け寄り、隙間から外をうかがった。
「虚が、いなくなってる……?」
どんな手品なのか。十匹以上いた虚は、嘘みたいに消えてた。そして、地面の向こうに小さく、小さくやちるちゃんの背中が見えた。
「もう、大丈夫、なの?」
緊張の糸が切れたかのように、力が抜けた声で遊子が言った。
「イヤ」
ジン太が、素早い動きで振り返った。慌ててそちらに目をやった瞬間、壁がぶち破られた。
野蛮な叫びと同時に、鋭い爪がギラリと光りながら、あたしたちに打ち下ろされる。
「っくしょー!」
まけじ、とジン太が叫ぶと、バットを振りかぶり、その爪に向かって打ちつけた。
耳をふさぎたくなるみたいな金属音が響いて、バットと爪が交差して……虚が下がった。これも、人型というよりは、獣に近い体型をしてる。
「虚の巣に迷い込んじまったみたいだな」
バットを虚に向かって構えたまま、ジン太が言った。
「排除します」
その後ろで、ウルルがガトリング砲を構えた。
「遊子! 逃げるぞ」
あたしは、立ちすくむ遊子の腕を取ると、水上要塞のレプリカに向かって駆けた。
あの桟橋の向こうの梯子をあがれば、隠れられそうなところがいっぱいあったからだ。が……
「危ねえ、戻れ!」
あたしたちが桟橋に乗り移ったのを肩越しに見たジン太が、大声であたしたちを呼び止めた。
「何……」
聞くまでもなかった。水上要塞が浮かぶ、プールの底から……突如、10メートルはある虚が、しぶきを飛ばしながら現れたんだ。
「なんだよ! 計算あわねー!!」
プールがどれだけ深くても、数メートルだろ。なんで10メートルの虚が出て来るんだよ!
あたしたちは頭からしぶきを浴びて、水上要塞から慌てて飛びのこうとした。
「このアトラクションは、少し、いえかなり、濡れることがあります!」
狙ったかのようにナレーションが入り、あたしはこんな場面だけど、ちょっと呆れた。
「きゃ……」
桟橋を後ろ向きに下がった遊子の足が、空を切る。
「遊子!」
あたしは、足を踏み外して桟橋から落ちた遊子を見て、慌てて駆け寄った。
「いったーい!」
桟橋の端に立って見下ろすと、遊子は下にあった水上バイクにかろうじてつかまっていた。
ほっとしたのもつかの間。
「なんか、これ、エンジンかかってるよ!!」
「切れ、切れ!!」
「どうやったら切れるのー!!」
聞かれたって、あたしだって水上バイクを間近で見たの初めてだし。勝手にエンジンが唸り、今にも勝手に走り出さんと、バイクの先が水上から持ち上がった。
「ええい!」
バイクが水上を駆け出すと、ほぼ同時。あたしはとっさに、水上バイクの上に飛び降りた。それとほぼ同時に、バイクが水面から弾むように暴走しだした。
「な! 何やってんだ、てめえらぁ!」
ジン太が泡食って怒鳴ったが、あたし達だって好きでやってる訳じゃねえ!
「あたる、あたる!!」
水上要塞って言っても、プールに浮かんだレプリカだから、水上バイクが走り回るスペースなんて、ほとんどない。
バイクの先は、まっすぐに要塞の先の壁を差してた。これ以上いけば、壁を突き破っちまう。
あたしは、必死でハンドルを取って、方向転換しようとしたが、ハンドルが固すぎて曲がらねぇ!
「やば……!」
あたしは、壁にぶち当たる瞬間、ハンドルを片手で握り締めたまま、下にしゃがみこんだ遊子の上に覆いかぶさった。
次の瞬間あたしたちを襲ったのは、体が跳ね上がるような衝撃と、壁が破られる、バキバキ言う音。飛び散る破片。
その後、あたしたちはパークのどこかに、水上バイクごと、投げ出されるはずだった。
下は、アスファルトかコンクリートだろうから、このスピードで叩きつけられたら……
……?
あたしは、いつまでたっても、バイクが走り続けているのに気づいて、おそるおそる目を開けた。
そしてハンドルを支えに立ち上がって……文字通り、クラクラした。プールの中、だったはず。なのに、今目の前にあるのは、どこまでも広がる海だった。