「グオォォォ!」
虚が獣の叫びを漏らして、後ろにのけぞった。その倒れた虚の後ろから巨大な氷の柱が、立ち上がったように見えた。
でもそれは、生き物のようにうねり、銀色にキラキラと輝きながら、あたし達に向かって突進してきた。
「龍……氷の」
あたしは、呆然として呟いてた。
頭から尾まで、30メートルはありそうな、馬鹿でかい氷の龍が。空に向かって、その巨大な口を開いて、吼えた。
ごう、と地響きみたいな音が響いて、ビリビリと鼓膜を震わせる。
「夏梨! 遊子!」
その咆哮の合間に、あたしはジン太の叫びを聞き取った。
龍が、あたしたちに並んだ瞬間。風にあおられ、バサッと翻った漆黒の着物に、あたしの視線はクギ付けになる。
「日番谷くん、ジン太くん!!」
ぱぁっ、と遊子の声の調子が明るくなる。龍の頭に乗っていたのは、いつの間に手を組んだのか、冬獅郎とジン太の二人だった。
冬獅郎は龍の角を左手で掴み、右手で刀を握っていた。その冬獅郎の肩をジン太が掴んでいる。
「やっと追いついたぜ!」
どれだけ戦ったんだろう、傷だらけの顔で、ジン太がニヤリと笑った。あたしたちに向かって手を差し伸べようとしたが、届かない。
「寄せろ、冬獅郎!」
「分かってる!」
冬獅郎が叫び返すと同時に、少しずつ、氷の龍が水上バイクに近寄った。それと同時に、冷気があたりを覆うのを感じた。
「つかまれ!」
ジン太が、あいた手をもう一度、あたしたちに差し伸ばした。龍に乗り移れってのか?
「遊子、行け!」
あたしは、ハンドルをきつく握ったまま、後ろの遊子に呼びかけた。
「う、うん!」
遊子が、グイ、と目に浮かんでた涙を拭って、手をジン太に指し伸ばした。でも、風圧でその手は後ろに流れてしまう。
「も……もうちょっと!」
ジン太が、歯を食いしばって、遊子に手を伸ばす。ズルッ、とその足が、龍の背から滑り落ちた。
「危ねぇ……」
冬獅郎が、とっさに刀を放し、龍から放り出されそうになったジン太の手を捕まえる。
「よっしゃあ!」
しかし、そんなことも頓着しないみたいに、ジン太は声を上げた。そのジン太の手は、しっかりと遊子の手を握り締めていた。
「でも!刀が……」
あたしは叫ぶ。カラン、と音を立てて龍の背を滑った刀が、海に飲み込まれるのを見たから。
「いいから。引き上げるぞ!」
冬獅郎の腕に力が篭るのが、着物の上からでも分かった。この風圧の中、片手でジン太と遊子の体を引き上げるなんて、カンタンなことじゃないはずだ。
でも、冬獅郎はちょっと眉間にシワを寄せるだけで、それをやってのけた。
「よし!」
ジン太が、龍の角に腕をかける。遊子も、龍の頭の上にうまくおさまった。
それを見て、ほっ、としなかったと言ったら、それは嘘だ。追ってくる虚のことも、暴走しまくる水上バイクのことも、その瞬間頭から消えていた。
ズルッ、とあたしの手が、ハンドルから滑った。途端に、コントロールを失ったハンドルが、ガクン、と左に曲がった。慌てて握りなおしたが、もう遅い。
「あっ!」
起こった波にあおられて、水上バイクが海上に跳ね上がった。
「夏梨!」
「夏梨ちゃん!」
―― ヤバイ。
そう思ったと同時に、遊子とジン太の悲鳴があたしの鼓膜を叩いた。
思わず目をつぶった、一瞬。
あたしの手の上から、同じくらいの大きさの手が、強くハンドルを握りこんだ。
「えっ……」
目を開けたあたしと、翡翠色の瞳が、思いがけないくらい近く……15センチくらいの距離で交錯した。
「冬獅郎!」
「大丈夫だ。つかまってろ」
あたしの叫びとは裏腹に、返されたのは、ハラが立つくらい冷静な声。
冬獅郎は、あの刹那の間に、あたしとハンドルの間に、体を滑り込ませていた。
ハンドルに背を向け、あたしのいる前部座席に片足をかけて、器用にバランスを取っていた。
後ろ向けの体勢のまま、その左手はハンドルをがっちりと掴んでる。
「どうやって運転するんだろうな、これ」
「少なくとも後ろ向きの運転は間違ってンぞ!」
「いいからつかまれ、女!」
冬獅郎は叫ぶや否や、左手に力をこめ、バイクの方向を強引に右に変えた。
「だから! あたしは夏梨だって……!」
抗議しかけたあたしは、前のめりに倒れ、冬獅郎の胴にしがみつく。あたし達の体の横を、虚の腕が通り抜けた。
もし水上バイクが右にそれてなかったら、直撃するとこだった。サッ、とあたしの背筋が寒くなる。
ざばっ、と水しぶきを立てて、バイクが水上に着地した。
冬獅郎の左腕に力がこもり、強引にハンドルを切り前に走り出す。
体重はあたしよりも軽いくらいだろうけど、力は何倍もあるらしい。
水上バイクは、嘘みたいにコントロールを取り戻し、順調に海上を走り出していた。
「虚が来てるぞ!」
ホッとする間もなく、ジン太が叫ぶ。振り返ろうとしたあたしに、冬獅郎の声が飛んだ。
「前見てろ。虚は俺に任せろ」
確かに、この体勢じゃ、冬獅郎は前が見えないけど、虚は見える。あたしが振り返ったら、方向を見るやつがいなくなってしまう。
「うん!」
あたしは頷くと、右のハンドルをぐっと握り締めた。
冬獅郎は、空いた右手を、虚のほうに向けた。その腕の周りに、冷たい空気が集まっていく
……そう思った時には、その腕をぐるりと取り囲むように、銀色に光る刃が何本も現れた。
「氷殺陣」
冬獅郎の低い声が、耳もとで聞こえた。それと同時に、その刃が冬獅郎の腕を離れ、意思を持ったものみたいに、まっすぐに虚に向かった。
刃に首を、頭を打ちぬかれた虚たちが、鼓膜がビリビリ痛いくらいの叫びを上げた。
「よっしゃ!!」
ジン太の声が聞こえ……あたしは、肩越しに一瞬だけ、振り返った。
あたしたちを追い詰めまくった虚の群れが、まるで影みたいに消えるのを見た。
それを、眉一つ動かさず見つめる、冬獅郎の顔は……その場にいる誰と比べても、格が違って見えた。
―― でも、それって……
「これだけで終わるとは、思わねえけどな」
冬獅郎の言葉に、あたしはふと頭にひらめいた考えを振り払う。
冬獅郎は右手を、バイクの両側に上がっている水しぶきの中に差し入れた。
その手の先が、青白い光に包まれた、と思ったとき。冬獅郎はその手を引き抜く。
水の中から現れた時には、その手は、一振りの刀を握ってた。その刀身は、水みたいに一瞬ゆらめいたけど、すぐに強固なものに変わる。
それは、さっき、ジン太を助けるために取り落とした、あの刀と外見が全く同じだった。
「『氷輪丸』は、水でできてる。水さえあれば、形を変えることも、復活させることも自由自在だ」
あたしの疑問を感じたのか、冬獅郎が淡々と言った。
「ンなことより、随分来ちまった。遊園地に戻るぞ」
「お前らもこっち、乗り移れよ」
ジン太が、あたしたちに手を指し伸ばした、途端。あたしたちの前方100メートルくらいの海上が、いきなり爆発した。
「今度は前かよ!」
ジン太が怒鳴った。
「また大虚か」
チラリ、と振り返った冬獅郎が呟く。
「このまま行ったら、バケモノに当たっちゃうよ!」
遊子が水上バイクと、虚を見比べて叫んだ。
「避ける時間ねえぞ!」
その通り。
ジン太が叫んだときには、避けられないほど近い距離に、大虚の姿が迫ってた。
「お前、ちょっとの間自分で運転してろ。俺がカタをつける」
「イヤだ」
前の虚を見据えていた冬獅郎が、こちらに顔を向ける。その眉が、怪訝そうにしかめられた。
「あたしも一緒に戦う」
「お前、力ないくせに……」
「力があるとか、ないとか、関係ねーだろ!!」
あたしは、冬獅郎の呆れたような言葉を遮った。
「あたしは力がないから、力があるお前を助けちゃおかしいのか? ひとりで戦ってんじゃねぇよ!」
ずっと、この言葉を言ってやりたかったんだ。
あたしが冬に会った時の冬獅郎は、あたしからも、一兄からも、恐らく他の仲間からも離れて、一人で巨大な何かと戦っていた。
誰の助けも拒み、背中を向けた冬獅郎の横顔は、強くて、冷たくて……そして、辛そうだった。
それを見て思ったんだ。
冬獅郎が死神だろうが、強かろうが関係ない。
「あんたはあたしのダチなんだ。ひとりで戦わせたりしねーよ」
その言葉で、あたしが言いたかったことを、冬獅郎が感じ取ったかは、分からない。相も変わらず、腹が立つような仏頂面のままだったから。
「おい、女」
「夏梨だっつってんだろ」
あたしと、冬獅郎は、つかの間視線を交わした。
「で? どーすんだ」
ちらり、と冬獅郎は、虚のほうを見やった。どーすんだ、と悠長に言ってる場合じゃないのは、振り向いた瞬間わかった。
もう20メートルもねえ!
縮み上がってた心臓が、今度は興奮でどんどん高まるのが自分でも分かった。やってやる。絶対、やってやるんだ。
「このまま行く! とびきりの一撃、食らわせてやる」
「オイ、それじゃ……」
「方向を決めるのはあたしだ!」
そう、言い放ってやると。
ちょっとだけ切れ長の目を見開いたアイツは、ニヤリ、と笑って見せた。
「勝手にしろ」
そういって、スラリと刀を鞘から抜き放った。
「行っくぞー!!」
最後の力を振り絞って、ハンドルを下へぐい、と引いて重心を後ろに引いた。
ただでさえ軽い体重で、浮き上がりがちだったところだ。水上バイクは、斜め上に進路を変え、空中へと飛び上がった。
進路の先は、狙ったとおり、大虚!
「食らえ!」
大虚の真っ黒い垂れ幕みたいな胴体に、水上バイクのとがった先が食い込んだ。
後ろへよろり、と倒れこみそうになった大虚の眉間に、冬獅郎が振るった刀が深く、深く食い込んだ。
その姿が一瞬光ったように見えて……大虚は、その質感が嘘みたいに、スゥッ、とその場から消えた。
「やった……あれっ?」
体が、暴風にあおられる。水上バイクが、激しい勢いで海面に叩きつけられたのを、視界の隅に捕らえた。
―― しまった!
着地のことまで、ぶっちゃけ考えてなかった。
ギュッと目をつぶったとき、肩をふわりとした感触が包んだ。
「詰めがあめーんだよ、夏梨」
その翡翠の瞳が、ほんの少しだけ、悪戯っぽく見えた。ギクリとしたのか、ドキリとしたのか、分からない。
それが、初めて名前を呼ばれたからだ……と思ったときには、あたしの肩を抱えた冬獅郎は、視線を氷の龍に向けていた。