くすくす。くすくす。
喉をくすぐられた猫を思い起こさせる忍び笑いが、ひっそりとした夜の隊舎に響いてゆく。通りの灯りが差し込み、壁に男女の長い影を浮かび上がらせる。草履の足元で霜柱が崩れ、時々サクサクと音を立てる。ほぅ、と白い息が交差した。
「やぁだ。佐野さんたら。どこ行くの?」
こんな暗いところに、あたしを連れて。桃色に色づいた唇が言葉を刻む。その言葉に、佐野六番隊第三席は、ごくりと唾を飲み込んだ。

ねぇ。
娘は甘い声でそう続けると、先を行く佐野の逞しい腕に、自分の細腕を絡ませてきた。
「!」
それだけで、佐野は一本棒でも通されたかのように、棒立ちになる。自分が純情だ、とは思っていない。女の経験だって二桁に乗るくらいはある。それなのに、情けないまでに身体が反応してしまうのはひとえに、相手が悪いせいである。
佐野はそっと、視線を落とした。そして、自分の腕に巻きつけられた二本の腕を見やる。そして、死覇装の上からもはっきりと分かる、華奢な腕のほそさ、やわらかさを感じ取る。

―― 据え膳だ!

食えと言われてる。絶対に、食っていいといわれてる。たとえ送り狼と呼ばれても本望だ、とその時彼は思った。たとえ相手が雛森桃、五番隊副隊長だとしても。

雛森は、あきらかに硬直した佐野を、首をかしげて見上げてきたようだった。首筋のあたりに、視線を感じる。
「あたし、なにか変?」
「いっ、いえ。なななにも!!」
「何か顔が熱いのよね」
ほぅ、と熱い息をついて、今度は佐野の目を上目遣いに見つめてきた。
「あたし、酔っ払うとすごく甘える癖があるって言われるの」
思わず、佐野は視線を雛森に移す。視線が絡み合った途端、ドキリとした。首の辺りから頬にかけて、鮮やかに桃色に染まった頬。酔いのせいで、大きな瞳は潤んでいる。目じりは艶やかに赤い。
「そんなことないよね? 迷惑かけてたら、ごめんね?」
いいとも!!
思わず返しそうになった言葉を、飲み込む。


死神、とは殺し殺されることも厭わぬ、戦闘集団である。したがって、女性も気丈な者が多い。その中にあって、控えめで愛らしい彼女はそれだけで天然記念物的な存在だった。
妖艶な美女、松本乱菊が東の横綱だとすると、可憐な雛森桃は西の横綱。全く本人にその自覚はないのだが、雛森は「抱きしめたい女死神」の不動の一位を占める実力者(?)なのだ(ちなみに乱菊は「抱かれたい女死神」の磐石の一位である)。

しかしその一方で、普段の雛森桃に隙はない。容姿に似合わず、彼女は炎熱系の斬魂刀を自在に操る気性の激しさも持ち合わせているからだ。瀞霊廷でも屈指といわれる鬼道の腕前と組み合わせると、並みの死神など束になっても叶わぬほどの実力を発揮する。
 実際、佐野も雛森の五番隊と組んで戦闘に赴いたことは有るが、果敢に自分の何倍も巨大な虚に立ち向かうその背中に、近づくことすらできなかった。その時の凛と澄んだ横顔は、未だに記憶に鮮やかだ。

ただ、そんな雛森が唯一、心の武装を解く時があるという。
それが、「酔っ払ってしまった時」というのだから、飲み会のたびに男達が酒を飲まそうとするのは無理もないことだろう。並み居る男達を蹴散らして雛森の隣の席につけ、遠慮する彼女の杯を満たし続けて2時間。世の男死神が一度は出会ってみたいシチュエーションまでたどり着いたのが、目下の佐野の状態なのだった。
―― 「酔っていらっしゃいますね。部屋までお送りしましょうか?」
自分が酔わせておいて酔っていらっしゃいますも何もないものだが、元々それが狙いだったのだから、ためらいは感じなかった。


ぴたり、と佐野は足を止める。
先へ行こうとしていた雛森が、佐野に腕を絡めたまま、突然自分と向き合う形になった男を不思議そうに見上げてきた。
「佐野さん?」
―― だ、だ、抱きしめていいですか?
心の声までどもっているのが情けない。

ここで雛森を抱いたとすると……佐野は頭の中で素早く計算する。
雛森は、目覚めれば酔っている時の記憶は全くないのだと言う。寂しいものだが、裏をかえせば、何があっても覚えていない、ということになる。頭の中で、ムラムラと不埒な妄想が湧いてくるのを留められないのは、自分もやはり酔っているからだろうか。
「どうしたの?」
あぁぁそんな風に、懐に収まるくらいに近づくもんじゃない。佐野は最期の理性のタガが吹っ飛びそうになりながら思った。


「……雛森副隊長」
はい? と傾けた首のなだらかな曲線に、掌を沿わせた。
「あ、あの」
空いている左腕が、背中の後ろで彷徨ってる。その気配を感じたのか、雛森はくすくすとまた笑い出した。
「やだ佐野さんたら、くすぐったい」
佐野が脱力するほど無邪気な笑みを浮かべると、ひょい、と佐野の腕から抜け出した。体重がないかのような、ひらりとした身のこなしだ。
―― 捕まえてほしいってことか?
闇の中、自分の部屋のほうへ踊るような足取りで進んでいく雛森の背中を見送り、あくまで自分に都合のいい妄想は止まらない。なんだか、身の回りが急にスースーしだしたのも、雛森が離れたからだろう。早くこの腕の中に思う存分ぬくもりを感じたい。

佐野が追いかけると、縁側の前に佇んでいる雛森の背中が目に入った。自室からの灯りに、その赤く染まった頬が照らし出されている。その視線の先が見つめるものに、歩み寄った佐野は視線を向けた。そこには、こじんまりとした庭園がしつらえられていた。決して広くは無く、貴族の館にあるような正式なものではない。雛森がおそらくあちこちから見つけて来たのだろう流魂街の野花や低木たちが、ひっそりと植えられていた。真冬のため咲いているものはないが、春になればさぞ通りかかる人々の心を和ませてくれることだろう。小さな植物をいつくしむ雛森の姿が、目に浮かぶようだった。

―― 同じ副隊長でも、阿散井副隊長とはエライ違いだ……
佐野は、自分の副隊長の姿を思い浮かべる。着た服も散らかしっぱなし、風情のカケラもない部屋を思い出し、即座に頭から追い払った。

「雛森副隊長」
呼びかけると、彼女は振り返り、にこっと笑った。
「なんだか、とても冷え込んできましたね」
ゆっくりと歩み寄り、腕を雛森に伸ばす。部屋の前で「ありがとう」などといって追い返されたら、これまでの苦労は水の泡だ。一気に雰囲気で流してしまうに限る。

「そう? あたしは寒くないわ」
「また、無理をおっしゃいますね」
なにしろ、死覇装の袖も凍りそうなほどに空気が冷えきっているのだ。寒くないというほうがおかしいが、確かに灯りに照らされた雛森の頬にはぬくもりを感じる。
―― ん?
そこで佐野は、思考を停止させた。
―― なんで、雛森副隊長の自室に灯りがついているんだ?
おかしい。雛森が当然のようにしているから気がつかなかったが、今まで宴席にいた雛森の部屋に灯りが既に点っているのはおかしいのだ。行灯の火を消さずにでかける、などという不注意は雛森には似合わない。
「……あれ?」
すぐに気づいたもうひとつのことに、思わず声を上げる。この冷たさは、単純な大気の冷たさではなく。霊圧を感じないか? そして、まさかとは思うが、この清冽な霊圧は。

雛森は、一気に血の気が引いた佐野を置いて、縁石に草履を脱ぐと、縁側に駆け上がった。そして、自室の障子をパーン、と開け放つ。
「ただいま!」
ただいま。その言葉に、佐野の顔がはっきりと引きつった。酔いが、急速に消し飛んでいく。開け放った障子の向こうの部屋で、雛森が誰かに抱きついているのが見えた。ゆったりと畳の上に胡坐をかき、雛森を受け止めた人物は、雛森よりはふたまわりは大柄である。銀色の髪。翡翠の瞳。そして、凍て付く霊圧。この3つを持ち合わせているのは、瀞霊廷広しといえど、たった一人しか居ない。
「佐野充春六番隊第三席!!」
そっと背中を返そうとした佐野に、すかさず鋭い声が飛ぶ。フルネームで、かつ所属部署役職付ですかい。これは逃げられない、と観念した佐野は、日番谷十番隊隊長に向き直る。なぜこの夜中に日番谷が雛森の自室にいるのか、などという当然の疑問は、頭から吹き飛んでいた。しかし、首筋に頬を埋めて甘える雛森を、慣れた手つきで抱きとめているその姿は、どう見ても……

「ナニしてんだ? てめぇは」
それを聞きたいのは僕の方です。などとその凍て付いた言葉の前に言えるわけもなく、佐野が縮こまる。雛森に見せている優しさの一千分の一でもいいから欲しいと思った。
「は! はい。雛森副隊長が酔ってしまわれたので、送って差し上げようと……」
言いながら、冷や汗が背中を伝うのが分かった。その不機嫌そのものの表情を見れば分かる。日番谷は佐野の魂胆などとっくに見抜いている。
「なるほど。ご苦労だったな、佐野」
「え? あ……」
思いがけないねぎらいの言葉に、佐野がほっとしたのもつかの間……
「さっさと隊舎に帰れっ!!」
怒鳴り声が六番隊舎に響き渡り、佐野は脱兎のごとく逃げ出したのだった。