「じゃあ、今日は先に上がるからな。後は頼むぞ」
日番谷は、最後の書類を書き上げると、硯箱に筆を置いた。うーん、と大きく背筋を伸ばし、腰に手をやる。はいはい、と軽く頷いて乱菊が書類を取り上げる。絶対に、日番谷が一歩出て行った途端に、居眠りを始めることは分かっている。それを見越して仕事を多めに終わらせた自分が、我ながら少し悲しかったりする。
「しかし、どーしたんです今日は? 珍しいですね。朝から先に上がるなんて宣言しちゃって。用事でもあるんですか?」
「大した用じゃねーよ」
ふーん? と乱菊は、日番谷を見上げると片方の眉をちょっとだけ上げる。そして、椅子を引いて扉に向かった日番谷の背中を視線で追いかけた。
「ところで隊長。もう雛森に告白したんですか?」
途端に、日番谷がゴミ箱を蹴っ飛ばした。
「えぇ、まだ!? まだ万年片思い記録を更新してるんですか?」
「そんな記録を勝手に作んな!」
ゴミ箱を立て直しながら、日番谷がキレた。しかし、日番谷の怒りくらいで恐れをなすような副官ではない。うーむ、と全く効いていない口調で唸ると、日番谷を見返してきた。
「ひょっとして、別に雛森のことどーとも思ってない……なんていいわけしようと思ってるトコですか? 隊長」
厄介な人ですねー、とため息をつかれ、日番谷もため息を返す。
「てめーな。一体なんの根拠があって、ンなこと決め付けてんだ?」
「何を今更。こないだ飲み会で酔っ払って、あたしの前で宣言してたじゃないですか。『雛森と付き合いたいなら、俺より強くなきゃ認めない』って」
「……は」
嘘だろ。嘘だと言ってくれ。少なくとも全く記憶にない。そんな日番谷の心の声とは裏腹に、乱菊はにっこりと人の悪い笑顔を返した。
「酒は呑んでも呑まれるな。気をつけてくださいね、たいちょ♪」
人のこと言えたもんじゃない。昨日の夜雛森に言った言葉を思い出し、雛森にバレたらオシマイだと思う、いろんな意味で。
「周りを牽制するのもいいけど、自分がいかなきゃしょうがないでしょうよ。全く、仕事はこんなに早いのに、恋愛ゴトとなると全くダメですね」
「……うるせぇ。あいつが俺をガキ扱いするから悪ぃんだ」
「……認めましたね?」
「うっせぇっつってんだ」
不機嫌がどんどん増幅していく日番谷とは逆に、乱菊はやたらと楽しそうだ。
「ったく。なのに、ガキ扱いしてんのは俺の方だって雛森は言うんだ。ワケ分からねぇ」
ん? という顔を乱菊が作った。
「え? 隊長、それって、どういう……」
「なんでてめーにそれを、イチイチ報告しなきゃいけねぇんだ」
正直言って、話して面白い話題でもない。日番谷は話を早々に切り上げようとしたが、にんまりと乱菊が笑った。
「もしも来月になっても進展なかったら、雛森にバラしちゃおっかな♪ さっきの爆弾発言のこと」
「は……」
なんだそりゃふざけんな。てめぇをバラすぞこの野郎。そんな日番谷の反撃が繰り出される前に、嬉々とした乱菊に隊首室を追い出された。なんで隊長が隊首室から追い出されなきゃいけないのか、憤っても後の祭りだった。
三十分後。日番谷は、自室で腐っていた。畳に落ちていた、作りかけの小さなコマを取り上げる。木を荒削りに作っただけのそれを、ぽんと机の上に放り投げた。まだバランスが取れていないコマは、くるくると数回回って、止まった。
「気に入らねぇな……」
つい、口をついて出た。雛森のことになると、やたらと人生の先輩ぶりたがる乱菊の態度が、どうにもこうにも気に入らなかった。
雛森が飲み会の度に、死神……というか送り狼たちに部屋まで送ってもらっていて、今まで奇跡的に魔の手を逃れているらしい。それを聞いた時自分の中に湧き上がってきた気持ちが、いわゆる家族愛とは違っていることを、日番谷自身もわかっている。わかっている上で、それ以上踏み込む気はサラサラなかった。率直に言ってしまえば、笑顔を見ていたいとは思うが、抱きたいとは思わない。それをチラリと想像することさえ、罪悪感を感じるほどだ。いつか雛森が誰かのところへ嫁にでも行く時、ちょっとした郷愁と共に、このあいまいな感情を気のせいだったと流してしまえれば万歳なのだが。
「日番谷くん?」
その時、障子を指先で叩く音に、日番谷は慌てて身を起こした。障子の影には、佇む雛森の影がくっきりと浮き出している。影でもはっきりと、ぷくりと幼く膨らんだ頬の輪郭と、すんなりとしたなで肩が見え、日番谷は表情をつかの間、和らげた。
「ホントに持ってきたのかよ」
ぶっきらぼうな口調で、障子を押し開ける。
「そりゃ、約束したんだもの持ってくるわよ」
日番谷の口調に雛森はちょっと肩をすくめたが、そのまま日番谷を肩で押しのけるようにして、部屋の中に入ってきた。手には、風呂敷包みを抱えている。
何か用があるならつきあってやる、と言った日番谷に対して、雛森のリクエストは意外なものだった。「バレンタインチョコを試作するから、味見してほしい」というのだ。
「チョコ、なぁ」
日番谷は障子を閉めると、その場でくるりと胡坐をかいて雛森の背中を見上げた。
「チョコなんかいいから、とっとと男の一人でも作れよ」
風呂敷を解いているその肩が、カクン、と落ちた。信じられない、とでも言いたげな表情で、振り返る。
「ホンット、ナマイキなこと言うようになったわね。日番谷くんこそどーなのよ?」
「あ? 俺?」
思いがけず問い返され、日番谷がキョトンとする。
「ええ、『俺』よ」
右手を腰にやって、雛森が振り返った。
「あたしが作りに来て、ヤキモチやいてくれるような子の一人や二人いるの?」
「別に」
いない、とはっきり言わなかった理由は、自分でもよく分からなかった。雛森は意外そうな表情を残し、また机に視線を戻す。
「おい、今から作る気かよ?」
風呂敷から出てきたのはチョコだけではなく、小さな鍋のようなものや果物も見える。
「うん。隊長の部屋って台所あるでしょ?」
「あるけどよ……」
気合たっぷりに割烹着まで取り出した雛森を、日番谷は半ばうんざり、なかば呆れたような表情で見上げる。
「味見って言われても、俺は甘いの苦手なんだ。参考になんねぇと思うけど」
「うん、だからね、苦めに作ってみたから」
本番と味を変えたら、味見にならないだろう。そう言いかけた日番谷が、飴玉でも飲み込んだような顔で、黙る。
「……おい、雛森。それってどういう……」
「台所借りるわねー! まぁ、実は台所使うまでも無いんだけど」
ちらりと死覇装の袖を翻し、台所へ消えた雛森に言い募るワケにもいかず、日番谷は続けた言葉を飲み込んだ。