ふわぁ、と誰はばかることなく大欠伸をしながら、乱菊は廊下を大股で歩いていた。
時刻は、8時59分。就業時間開始は9時。あと1分で勤務場所である執務室にたどり着く可能性はないが、本人がそれを気にする気配はない。
「おっはよー!」
寮スペースから執務スペースに一歩、足を踏み入れた時だった。
「ふ、副隊長!!」
「松本副隊長!」
周囲から隊士達が、血相変えて走り寄ってくるのを見やり、乱菊は足を止めた。
「どーしたのよ? 何か騒動?」
「そ、騒動っていうか。騒動じゃないんですけど」
そう言って、隊士達は顔を見合わせる。
「煮え切らないわね、何なのよ?」
「隊長が、その、ちょっと……」
「隊長? って、日番谷隊長よね?」
思わず聞き返す。日番谷が、部下をこんな当惑させる事態を引き起こすとは思わなかったのだが……
隊士達は、ためらいながらも頷いた。
「どうしたってのよ?」
「はぁ。あの、なんていうか、ちょっと……ヘンです」
「は!?」
変? 何言ってんのアンタら、と笑い飛ばすには、隊士達の表情は真剣すぎた。
「えぇ。私達ではどうしたらいいか分からなくて……だから、副隊長を待ってたんです」
って、またかい。
たった二週間ほど前も、同じようなことを言われた気がするけど? あの時泣きついてきたのは吉良だが。
「どーなってんのよ、一体」
朝からぼやきながら、乱菊が大股で執務室へと向かった。
「隊長? 開けますよー」
声と共に乱菊が執務室の扉をバーン、と開け放つ。
その途端、冷たい空気が頬を打った。
目の前の風景を把握する時間、一秒。
その意味を把握する時間、無限大。
乱菊は、しばし続ける言葉を失って、立ちすくんだ。
「な、何やってんです? 隊長。ていうか、何考えてるんです?」
「あぁ、松本か」
顔を上げた日番谷が、どこかうつろな瞳を乱菊に向けた。
まるで、冷凍庫。一番初めに乱菊が思ったのは、それだった。
机も椅子も窓枠も床も、全てが凍りついている。
そしてまるで何事もないかのように日番谷が凍った椅子に座り書類をチェックしているのが、非常に怖い。
隊士達があんな顔するのは無理もないと思う。
「ちょっとアタマを冷やしたほうがいいかと思って」
「正気じゃないのは確かですね。でもアタマ冷やしたのは間違ってるみたいですよ」
つかつかと執務室に入ろうとして、つるり、と乱菊の足が滑りかける。
「何てバカなことしてんですか? ギンでも伝染ったんですか?」
最近、妙に日番谷と市丸が一緒にいることが多いのを、気にしていた矢先だった。
日番谷にとっては、これ以上ないほどの痛罵となるはずだった(失礼)が。
日番谷はバーン、と机を叩き、激昂した。
「ンな訳あるか! ボケ!」
ボケって何よ。
馬鹿野郎は何度だって言われたが、「ボケ」は初めてだ。
ていうか、今の日番谷にボケてるなんて言われたくない。
「ね、熱高いんじゃないですか? 隊長」
何かマトモな原因はないか、と探す努力をしながら、乱菊は日番谷を見た。
「何でだ?」
「だって顔赤いですよ」
そう乱菊が言った、途端。その頬が、朱を刷いたようにサアッ、と赤くなった。
「え?」
今の会話のドコに、赤くなるような要素があっただろうか。
「ギンが伝染るってトコで……」
「ちょっと来い松本!」
乱菊が言い終わるよりも早く、日番谷が突然大声を出し、立ち上がった。
「た、隊長……?」
けなげな部下達が、乱菊の背後から執務室の様子を伺っている。
隊長がこんなでは、仕事をはじめる気にもならないのだろう。
「何ですか?」
乱菊は、スケートリンクのように凍りついた床を注意深く歩み寄る。
そして、隊首机に行儀悪くも(元々日番谷は行儀がよくない)ひょいと腰掛けた日番谷に歩み寄った。
「もうちょっと近く」
「こうですか?」
「もうちょっと」
自然と、30センチほどのところで顔を付き合わせることになる。
立ち上がった乱菊と、机に座った日番谷の視線は同じくらいの高さにある。
「……」
日番谷は、乱菊の顔を至近距離からじーっと見た。
やおら……
「キャー!!」
女性隊士達が悲鳴を上げる。
無理もない、いきなり日番谷が乱菊の肩を抱きしめ、自分のほうへ引き寄せたからだ。
「た……」
さすがに動揺し、乱菊は「た」から先を続けられずにいる。
日番谷は、ちょっと視線を宙に泳がせた。
まるでスイカの中身を叩いて確かめる時のような顔だった、と隊士の一人が例えた表情で。
やがて、固まりまくっている部下達の前で、日番谷は言い放った。
「全っ然ダメだ」
「はぁ?」
絶句する乱菊を自分から突き放し、日番谷はひょい、と床に下りた。
そしてしきりと首をひねりながら、スタスタと部下の間をすり抜け、執務室から出て行ってしまったのだ。
「……なにあれ」
執務室には、文字通り凍りついた部下達だけが残された。
冷静になれ冷静になれ冷静になれ冷静になれ。
呪文のように朝から唱え続けていた。
これはきっと、いや絶対的に、満月の夜に起こるふざけた症状のうちのひとつなのだ。
こんなことがマトモであるはずがないのだ。
気づけば、瀞霊廷の外れにある森までやってきていた。
はぁ。
近くの木の幹に背中をつけ、日番谷はため息をついた。
その時、右の二の腕にかすかな違和感を感じ、見下ろす。
―― ああ、あれか。
夜明け前に市丸に背後から掴まれた時のものだ、とすぐ思い出す。
思い切り力入れて握り締めやがって。そこまで考えて、日番谷の思考がふと飛んだ。
両側から包み込むように伸ばされた、筋肉質の腕。腕を掴んだ、大きな掌。
振り返った時に間近に見えた、広い胸板。
酒を嚥下したときにごくりと動いた、その喉仏の動きまで、思い出した。
「……市丸」
呟いた途端、自分の声で我に返った。
―― な、何考えてんだ俺は!!
あの時は明らかにウザい、暑い、離れろ、としか思ってなかっただろうが! と自分を叱咤する。
それなのに、明らかに顔の温度が上がっているのが分かる。
心なしか(実は明白に)鼓動も高まっているような気がする。
―― こ、この状態は、いわゆる……
考えたくない。決っっっして、認めたくない。
「これは、病気なんだ」
日番谷は声に出して呟いた。そうだ、一時的なもので、今は症状が出ているだけなんだ。
そうでなければ、誰が市丸なんかに! と無意味に拳を握り締める。
しかし、どうして相手が市丸なんだろう。乱菊を抱きしめても、全く何も感じなかったというのに。
症状が出て初めに見た奴だけにそんな感情を持つのかもしれない。
―― 最低だ。
有る意味、ウサギ耳とか子供になったほうがまだマシかもしれない。
市丸のことが……気になって気になって、仕方ないなんて。
とにかく、今市丸と会うのは絶対に避けたほうがいいのは分かった。
日番谷は、懐から伝令神機を取り出すと、それを無意味にキッと睨みつける。
しばらく迷いながら、番号をプッシュした。
「おー、日番谷はん? 今朝どしたん、急におらんようになったから心配したで!」
市丸の……声だ。
―― うるさい!
乙女か、と自分の心中の呟きにツッコミを入れる。
しかし、声だけで顔が火照ってしまうなんて、本当にどうかしていると思う。
これが電話で本当に良かった。
「いいか、市丸」
「はぃ?」
「今後絶対、俺のほうから会いに行くまで、俺の前に顔を見せるな」
これでいい。
口にしながら、そう思う。
このふざけた症状は、きっとそういつまでも続かないはずだ。
その間だけ、市丸と顔を合わせなければ、いつも通りに過ごせるはずだ。
「はぁ? いきなり何や? ちょっ……」
許せ市丸。
そのまま通話を切ろうとした時だった。
「そういう訳にはいかんな」
いきなり、声が目の前で聞こえた。
びくん、と顔を上げた時、市丸の顔が15センチほど近くに突き出された。
その左耳に、伝令神機を当てたまま、地面に膝をついている。
立っている日番谷のほうが若干目線が高い。
日番谷の伝令神機にすかさず手を伸ばすと、手首ごとぐっと握り締めた。
―― 気味の悪ぃ瞬歩の使い方しやがって……!
とにかく速い。そのうえ、全く相手に気配を感じさせない。
「へぇ」
ずい、と市丸が身を乗り出した。
そして、日番谷の伝令神機の通話を切ると、ゆっくりとそれを日番谷から取り上げた。
地面の上にそれが投げ出されるのを見て、日番谷の背中に冷や汗が流れた。
自分をまじまじと見下ろす、市丸の視線を感じる。
しかし厄介なことに、前にウサギ耳が生えたときは嫌悪しか感じなかったのに、嫌な気分になれない。
「市丸! 離れ……」
怒鳴ろうとした顎をとられ、顔を無理やり市丸の方に向けられる。
「顔、真っ赤やで」
「!!」
死んでも市丸には言われたくない一言だった。
振り払おうと顎を取った手首をつかんだが、びくともしない。
市丸は手の甲を返すと、逆に日番谷の手首を握り返し、一気に自分の懐へと引き寄せた。
とっさに、市丸の胸に左手をついて、胸に倒れこむのだけは避ける。
「ごめんなぁ。実は、今朝の様子みただけで、何となくわかっとったんよ」
笑みを含んだ市丸の声が、耳をくすぐる。息が耳朶にかかる。
「いわゆる『惚れ薬』ってヤツか」
「氷漬けになりてぇのか?」
下を向いたまま返す日番谷の声は、はっきりと分かるほど上ずっている。
「あぁ。するんやったら、早よしたほうがええで」
市丸の右手が、するっと髪を撫で、肩を撫で、背中を撫でる。
「ただし、そしたらエエコトできんようになるで? それもイヤなんやろ? ……冬獅郎」
名を呼ばれ、カッ、と耳まで熱くなるのが自分でも分かった。
この野郎凍らせてやる、と思う反面、体を撫で回す市丸の掌が、思考を飛ばすほどに心地よい。
絶対に認めたくなかったが、陶酔を伴うその感情を押し殺せない。
―― どうしよう。
混乱しすぎて、霊圧を練ろうにも集中できない。
そして、まさにその時。
―― どうしよう。
こっそり日番谷の後をつけてきていた乱菊は、奇しくも自らの隊長と同じことを考えていた。
霊圧を消し、近くの木の幹に隠れて、そーっと顔だけ突き出している格好である。
―― 何やってんだ、あたし……
夫の浮気現場を見つけた妻じゃあるまいし。
というより、今目にしているものが、全くもって信じられない。
仮に市丸がトチ狂って日番谷に迫ったとしても、日番谷なら跳ね除けられるだろうに。
何よりも、それができずにいる日番谷が信じられなかった。
市丸に隠れて見えないが、真っ赤に染まった耳元がちらり、と見えるに至って、乱菊はくらりとした。
恥らう乙女じゃあるまいし。
やばいと思いながらも、その場から目が放せない。
「負けてしもたらええ」
混乱している日番谷の耳に、市丸が唇を寄せた。
その口元は、ニヤリ、と笑みに形作られている。
「これは、あの妙な症状の続きなんや。病気みたいなもんやから、ムリせんほうがええ」
背中に押し当てた掌を、ぐっ、と自分のほうに向けて引くと、小さな熱を持つ体が、あえぎながら引き寄せられてきた。
「ダメだ」
その手が、市丸の肩をつかんで突っ張る。
しかし、ちろり、と市丸が舌先でその手首を舐めると、火傷でもしたように手を引っ込めた。
「何す……!」
二人の体がぶつかった。
「ええやん。流されてしもたほうが、ラクやで?」
「いちま、る」
熱を帯びた声が、市丸の鼓膜を甘くくすぐる。
「ボクに任せといたらええ。気持ちようしたるわ」
ダメだ。どうしても市丸の声に逆らえない。日番谷はぎゅっ、と目を閉じた。
心は警鐘を鳴らしているのに、体がいうことを聞かないのだ。
「やめてくれ」
「力抜き。そこに座り」
日番谷の懇願にも近い声音を、市丸が遮る。
座ってしまったらお終いだ。
そう思っているのに、市丸の懐に倒れこむように力を抜いた自分の行動が信じられない。
―― 誰か……
恥も外聞もあったもんじゃない。
日番谷が、そう思った時だった。
「はーい、そこまでよ」
ポン、と市丸の肩に、手が置かれた。
「!!!」
一瞬、全ての思考が吹っ飛んだ。日番谷は、そーっ、と背後を振り返る。
「ま……松本」
あまりの事態に、ついていけない。
しかし、いち早く立ち直ったのは市丸だった。
「んじゃ冬獅郎、また夜、な」
耳元でそれだけ言い残すと、フッ、とその場から瞬歩で姿を消した。
その間、わずかに5秒ほど。
「こ……」
この、裏切り者!
日番谷が、そう叫ぼうとした時だった。
「たいちょう?」
妙に優しい乱菊の声に振り返ると、仁王立ちした乱菊が目に入った。
「事情、聞かせてくれますよね?」
「……事情」
乱菊が、頭を振りながら立ち上がった日番谷を見下ろした。
そのときだった。
「あれっ?」
日番谷は、あまりに場にそぐわない声を上げて乱菊を見返した。