※短編halcyon daysの、続編だったりします。
※一部、日雛です。
「誰かを待っているのかい?」
ふいに問いかけられ、一護は顔を上げた。店のマスターが、漁師のように日焼けした顔をほころばせて彼を見下ろしていた。
手には、温かいコーヒーをなみなみと満たしたコーヒーカップを大事そうに持っている。
「いや、ンなことねぇよ。そもそも俺がここに来る時って、いつも一人じゃないスか」
頭を下げて追加のコーヒーを受け取り、口をつけてから一護は返事をする。
空座町全体を見下ろせる、旨いコーヒーを飲ませるこの店は、一護のお気に入りだった。
全ての場所に手垢がついたような、慣れ親しんだ温かい街の中で、ここだけが異質だった。
たった一人になりたい時、一護は隠れるようにこの場所に来る。
―― 誰かを待ってたように見えたのか? 俺は……
そんなはずはない、けれど。
一護以外は無人のオープン席にゆったりと腰掛け、街を見下ろす。
「ホラ、一度だけ、小学生くらいの男の子が一緒にいたじゃないか。男の子って言い方は似合わないな、『少年』って感じの凛とした綺麗な子だったな」
「あぁ、冬獅郎」
「冬獅郎、というのか。不思議な子だったな」
一護が声をあげると、マスターは顎に指を置いて考え込んでいるようだった。
「綺麗、というか。印象的、というか……いや、『異質』というか」
鋭い。一護は思わず突っ込みそうになった。
異質なはずだ。
なぜなら彼は、人間ではないのだから。
「異質、というのが僕は好きでね」
マスターは微笑み、テーブルにおいてあった、一杯目の空のコーヒーカップを手に取る。
「日常の中の異質。たとえばこの瞬間のように」
キッ、と顔を上げて黄昏と向き合ったマスターの横顔こそが異質だ、と一護は思う。何を考えているのか、全く分からない。
圧倒的なオレンジ色を天から投げかける太陽は、今まさに街並みの向うに沈もうとしていた。
「……だな。なんだか、戻れなくなっちまいそうだ。ずっと見てると」
平和なその景色を見渡す一護の瞳に、ギラリと光が渡った。
「……一護君?」
「なんでもねぇ。そろそろ家に戻らねぇと、家族が心配する」
コーヒーをぐいと飲み干すと、一護は立ち上がった。一人客の姿がちらほらと見える店内に足を踏み入れると、財布を出して金を払う。
―― 今日も来なかったな。
何となく考えて、一護はハッと思考を途切れさせる。
俺は誰を待っていた?
その時だった。
チリーン、と店の扉に取りつけられていたカウベルが、澄んだ音を響かせた。
「ごめんね、もうすぐ閉店だから……」
言いかけたマスターが言葉を切る。一護は首筋に視線を感じて振り返った瞬間、声をあげた。
「冬獅郎っ!」
日番谷冬獅郎は、扉を少しだけ開けて、薄暗い店内に顔を覗かせていた。扉の向こうは夕焼けで真っ赤だ。
「……よぅ」
一護と目が合うと、少し肩をすくめ、挨拶とも言えない挨拶を返す。そのどこか決まり悪そうな態度は、堂々としていた先日とは明らかに違っていた。
「どーしたんだよ、いつこっちに来たんだ?」
自分の声が高くなっていることを自覚しながら、一護は日番谷に歩み寄る。その時ひょい、と日番谷の頭上から、もう一つの頭が覗いた。
「こんにちは。あなたが黒崎一護くんね」
人懐っこい、鈴を転がすようなかわいらしい声が漏れる。一護の知らない少女だった。
日番谷とは対照的な黒髪が、すんなりと肩から背中に流れている。
肌は血の気が少ないのではと思うほど白かったが、つぶらに見開かれた瞳が可憐だった。
日番谷はシンプルな黒いTシャツにジーンズ姿、少女は薄いオレンジ色のワンピースをふわりとまとっている。
あぁ。
振り返った日番谷が、少女に向けた視線で分かった。
「あんた、冬獅郎の幼馴染か?」
なんで分かった、という顔を日番谷が浮かべる。
―― そりゃ、あんな優しそうな顔してたら分かるさ。
それを言うと怒りそうだから、敢えて言わないけれど。
「えぇ、雛森桃っていいます。日番谷くんがあたしにアロマオイルを買ってきてくれたとき、手伝ってくれたって聞いて。お礼が言いたかったの」
ぴょこん、と頭を下げるのを見て、一護は慌てて首を振る。
「大したことしてねぇよ。すぐに見つかったし」
「……やっぱり、いい人ね」
雛森は、そんな一護の目をじぃと見つめたと思うと、不意に微笑んだ。
「日番谷くんが楽しそうに人のことを話すの珍しいから、きっといい人だろうなって思ってたの」
「はぁ? 楽しそうになんて話してねぇよ」
「はいはい」
即座に言い返した日番谷の肩にポン、と手をやる。不機嫌そうな日番谷と、見守る雛森。その構図に、一護は思わず微笑んでいた。
前に会った時の日番谷は、意識不明で病床にある雛森を全身で心配していた。
ふとしたときの表情、立ち振る舞い、話し方、全てが少女への心配に向けられていたと言っていいくらいだった。元気になったようでよかった、と心から思う。
「礼を言ったんなら、あっちに帰るぞ」
長袖のワンピースの裾をひょいと掴み、日番谷はそのまま外へ出ようとした。
「えぇ? いいじゃない、もうちょっといようよ! あたし、久しぶりにこっちに来たんだし。買い物もしたいよ」
「ダメだ」
「何よぅ、急に! ここに来るまではすぐ帰るなんて言ってなかったじゃない」
「……状況が変わったんだよ」
「へ? 状況って何よ?」
「お前にはカンケーねぇよ」
首をかしげた雛森にそっけなく言い捨てると、
「邪魔したな」
店の中の一護に声をかけ、そのまま扉を閉めようとした。
「っと、待ったぁ!」
思いがけなく大きな声が出て、日番谷がさすがに動きを止める。
「何だよ?」
翡翠色の瞳が、じっと一護を見つめてくる。あぁ姉弟だ、とそれを見て一護は一瞬、関係ない感慨を持った。
話すとき相手の目を真っ直ぐに覗きこむ日番谷の癖は、雛森から来たものかもしれない。
大きな目のせいか、綺麗な色のせいか、凝視されて一護は思わずたじろいだ。
「い……いや、大したことじゃねえけど。せっかく来たんだから、いくら何でも一分くらいで帰らなくてもいいだろ?」
「カンケーねぇだろ」
「いや、ある」
「何が? ねぇよ」
「あるったらある」
ある、ない、と言い合っている一護と日番谷を見て、ぷっ、と控えめな笑いが漏れた。
振り向くとカウンターの向うから、マスターがあたたかい視線を三人に向けていた。
「一護君はお得意様だからね、特別だ。閉店時間を延ばすから、ゆっくりコーヒーでも飲んでいくといい」
「賛成!」
弾んだ声をあげたのは雛森だった。扉の前に立った日番谷を押しのけるように店の中に入ると、カウンターにおいてあったメニューを覗き込んだ。
「お前も諦めて入れよ、冬獅郎」
一護が歩み寄った時、日番谷は険しい視線を夕陽が沈みつつある街並に投げかけていた。その視線に、一護は何となくピンと来て声を潜めた。
「まさか……虚でもいるのか?」
「気づかねぇのかよ? 鈍いにもほどがあるぜ」
日番谷も声を潜め、チラリとカウンターの雛森を見やった。
「今のこの街には、虚の匂いしかしねぇ」
「あの……雛森って子は知らねぇのか? 副隊長だろ?」
「ケガを負った後遺症で、まだ霊圧がうまくつかめねぇんだ。気づいてねぇ」
「そう、説明すりゃいいだろうが」
そう返した時の日番谷の表情の変化に、自分がまずいことを言ったのに気がつく。
案の定、日番谷は眉を顰めて続けた。
「今、すべての虚の黒幕は藍染だ。関わらせたくねぇ」
その時の、日番谷の美しい翡翠を曇らせた深い苦悩。
それを目の当たりにして、一護は前に会った時の彼の苦しみが、全く軽減されていないことがよく分かった。
「とにかく。雛森は瀞霊廷に返す。その後戻ってきて、虚を片しとく」
コーヒーを注文している雛森に歩み寄ろうとした日番谷の肩を、一護が掴んだ。
「何だよ?」
「それは、ダメだ」
「は?」
「お前だって、ボロボロだろ? 自分で気づいてねぇのか?」
思い切って、そう言った。肩に手を置いた時はっきりと分かったが、明らかに日番谷は前会った時よりも痩せている。
今瀞霊廷がどんな状態なのか一護に知る由はないが、残された隊長たちで激務に追われているのは増雑に難くない。
そして、迫り来る藍染率いる虚の脅威とも戦わなければならない。おまけに日番谷が背負っているのは、それだけではない。
一護には分かるのだ。悩み傷ついている雛森自身よりももしかしたら、それを傍で見守り続ける日番谷の傷のほうが深いと。
「お前は、雛森さんとここにいろ。虚の位置さえ教えてくれれば、俺が行く」
「断る」
日番谷の返事は、簡潔すぎるほど簡潔だった。
「何でだよ?」
「俺は隊長だ。死神代行風情に仕事を肩代わりさせるなんて、真っ平だ」
「死神代行『風情』だぁ? てめぇ……」
ブチン、と頭の中で何かが切れた。確かに隊長と死神代行の間には、月とスッポンくらいの距離があるのだろう、と死神の階級に疎い一護でも予想がつく。
だからと言って、面と向かってけなされて流せるはずもない。
そんな一護を見て、フン、と日番谷は鼻を鳴らした。
「てめーだって今、子供のくせに、くらいは思っただろ。お互い様だ」
「ガキだなんて、思って……」
言いかけて、言葉に詰まる。見た目は子供でも中身は自分よりずっと年上。分かってはいるが、夏梨や遊子と同じような目で見てしまうのは、事実。
「もう一度言う。てめぇは関係ねぇ」
それだけ言うと、日番谷は一護の横を通り過ぎ、店内へと足を踏み入れた。もうこれ以上の問答は無用だ、という圧力がその短い言葉には篭っていた。
「……っ、勝手にしろ!」
この生意気なガキめ。とっさにそう思って、自己嫌悪に陥る。「ガキだなんて思ってねぇ」と10秒前言いかけたのは、この口か。
「マスター、ごちそうさん!」
えっ、帰るのかい、というマスターに肩越しに手を振り、勢いで店から出てきてしまった。そして、群青色に変わりつつある空を睨むように見据えた。