※そんな長くないですが、一応目次です。
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その頃。
兄の気持ちを知る由もなく、夏梨は「狭間の世界」で立ち尽くしていた。
「……なに、これ」
勝手に漏れた自分自身の声に、我に返る。
おかしい。
自分は確か、家の階段から足を踏み外して玄関に落ちた、はずだ。
なのにどうして、こんなメルヘンな場所にいるのだろう。
周りには、名前も知らないパステルカラーの花々が咲き乱れていた。
見下ろした自分の掌は皺まではっきり見えるが、数メートル遠くは、ぼうと霧に霞んでいる。
どこからともなく聞こえてくる水音に視線を向けると、小さな川が流れているのが見えた。
生き物の気配は、ない。
なんとも言えないいい香りが漂ってきていたが、香りの元は分からない。
「……まさか」
それ以上を声に出すのははばかられた。
これって俗に言う、「三途の川」ってやつじゃないのか?
ていうことはまさか自分は……
「ウソだろ……」
隕石が降ってきたとか未知の病原体に侵されたとか、そんな華々しい死に方を予想してたわけじゃないが、そりゃないだろと思う。
階段で足を滑らせて、落ちて死にました、なんて。
お悔やみの言いようもなくないか?
父親の一心にねだって、高めのサッカーボールを買ってもらったばかりなのを思い出す。
どうせなら、そんなのに金かけさせる前に落ちればよかった。
じゃなくて!
夏梨は、俗に走りそうになる自分の思考を引き戻した。
引き返さなきゃ、そう思う。でも、どちらに行ったらいいのか分からなかった。
そのときだった。かすかな男女の声が聞こえてきたのは。
「じゃあな、打ち合わせどおりに行けよ!」
「わかってるわよ」
「行くぞ。3・2・1・キューッ!」
映画の撮影……? 三途の川で?
夏梨が首を傾げた時。
その目を、いっぱいに見開いた。
清らかな小川が流れる向こう岸、ぼんやりと霞に覆われたその先。
ワンピースに身を包んだ細身の女性が、いつの間にか立っていたのだった。
黄色のワンピースの裾が、風にあおられて揺れている。
腰まである栗色の髪は、軽やかにウェーブしている。
優しそうに弓形に細められた瞳。口元が、微笑んだ。
「か……あ、さん」
久しぶりに口にした呼び名は、違和感を持って喉を通っていった。
「母さん!」
自分の声じゃないみたいに、高まる。衝動的に、川へと駆けよった。
しかしその前に、母……黒崎真咲は、制するように掌をかざした。
「……かあ、さん? あたしだよ、夏梨だよ!」
「夏梨。……また会えて、ママは嬉しいわ。でも……」
そこで、言葉を止める。
「でも、あなたはまだ、ママと同じ世界に来ては……」
「誰だ、あんた」
「いけな……え?」
感動とはほど遠いドライな声に、真咲はぴたりと動きを止めた。
「何言ってるの? わたしはあなたのママ……」
「それだ」
夏梨はその場に突っ立ったまま、「母親」を見据えている。そこからは、すでにさっきまでの感情の震えは消えうせている。
「黒崎真咲」は、まるで予想外のアドリブを入れられた女優のように立ちすくんだ。
そんな彼女に、夏梨がビシッと指を突きつける。
「母さんは、『ママ』って呼ばれるの大嫌いだったんだ! お母さんって呼びなおさせてたもん。
自分でママなんて言うはずねぇよ。あんた誰だ」
「そ……そんな、そんなこと? ママも死んでからいろいろあったのよ!」
「じゃあ、質問だ。あたしたちは3人きょうだいだけど、あたし以外の他の2人の名前は?」
うっ、と「真咲」が詰まる。
「ほーら。分かんないだろ」
夏梨は、ずい、と一歩近づく。子供とは……いや、死人とは思えない貫禄だ。
「あのバカ親父の名前は忘れても、子供は忘れないだろ? 兄は黒崎一護。妹は遊子だ!」
その瞬間、「真咲」はその目を大きく見開き、演技としては致命的な叫びを漏らした。
「一護!? うっそ?」
「ハーイ! カットカットォ!」
いきなり野太い男の声が聞こえ、「真咲」は唐突に伸びてきた腕に引っつかまれて、霧の向こうに連れこまれた。
「おっ、まっ、えっ、は! 大根芝居にもホドがあるぞ、清音! 時間ねぇぞ!」
「うるさい小椿! ママ派とかお母さん派とか、そんな事前情報調べてる時間、あるわけないでしょっ!」
「とにかく! あと3分だ。3分で現世へ戻さねぇと!」
「てゆーか、今の聞いた? あの子、黒崎一護って言ったのよ?」
「はぁ? 黒崎一護って、まさかあの……」
「……あのさぁ」
突然背後から聞こえてきた声に、二人はびく! と肩を揺らせる。
泡を食った表情で、振り返った。そこには夏梨が、何だか困ったような表情で立っている。
「あんたら、一兄のこと知ってんの? ……もしかして、死神?」
***
現世では、一護とルキアが、横たわる夏梨を見守っていた。
「おかしい……」
一護の腕時計を横から覗き込んだルキアは、声に焦りを滲ませる。
時刻は、5時32分を差していた。
「もう、7分が経過しておる。あと3分しかないぞ……」
嫌な予感がする。一護はルキアを横目で見下ろした。
「さっきは怖くて聞けなかったけどよ。『狭間の世界』にいられるのは10分だって言ったよな。10分越えると、どうなるんだ?」
「……私も怖くていわなかったのだが」
ルキアはしばらくの沈黙の後、そう切り出した。それだけで、どんな答えが返ってくるカなど、おおよそ予想がつくというものだ。一護は声を荒げた。
「まさか! 戻ってこれねぇとか、このまま死ぬとか言うんじゃねぇだろうな!」
「……10分を越えれば、現世への道は閉ざされる。ソウル・ソサエティしか行き場所はなくなるのだ。瀞霊廷の時が動く限り、例外はありえぬ」
それは、つまり。「死ぬ」ということだ。
いくら言葉をはしょられても、その表情を見るだけで、嫌というほど分かってしまう。
どうする。一護はめまぐるしく、夏梨と腕時計を見比べた。
できることなら、「狭間の世界」に今すぐ駆けつけて、夏梨を引き戻したかった。
だが、それができないというなら……すぐに、瀞霊廷に駆けつけて、夏梨を戻すようかけあってみようか?
ただ、助けられる可能性があるというなら、ルキアがそれを口にしないほど冷淡ではないことを、一護もよく分かっていた。
「……夏梨を戻そうとしている死神がいるはずだ。その者を信じるほかない」
苦渋の表情で、ルキアが夏梨に視線を戻した時だった。
唐突にルキアのワンピースについたポケットの中で、電子音が鳴り響き、二人は同時にビクッと体を震わせた。
すぐにルキアは、鳴り続ける伝令神機を懐から引っ張り出すと、耳に当てる。
「はい。十三番隊・朽木ルキアです」
「朽木さんっ! 助けて!」
「……だっ、誰だ?」
突然聞こえてきた女性の声に、ルキアは思わず伝令神機を耳から離し、見返した。しかし逆に、一護は身を乗り出す。
「か……母さんっ?」
はっ? という顔をしたルキアだが、さすがにすぐに事情を飲み込んだ。
「……あぁ。もしかして、今黒崎夏梨と会っている死神……」
うわぁん、と母親の声が泣き出すのに、一護は耳を疑う。
「一護君でさえフツーにだまされるのに、何なのよあのドライな妹はっ!?」
「……」
一護とルキアは言葉をなくし、顔を見合わせた。ルキアが眉間に皺を寄せたまま、おそるおそるといった具合で声をかける。
「もしかして。虎徹副隊長ですか?」
「なんでわかったのっ?」
わかる。はっきりと、わかる。
そのハイテンション、しゃべりかたで一目……一耳瞭然というものである。
少なくとも、母親の真咲である可能性は0だ、と一護にもすぐに分かった。
「あ、あのー。虎徹、サン……?」
「ねぇ一護君、どーやったらあの妹、あたしが母親だって信じてくれるの? もう時間ないんだけど!」
うっ、と一護は口ごもる。
考えてみれば、もう時間は3分……いや、2分に迫っている。
よく言えば理性的、悪く言えばドライな妹だが、死んでも全く変わらないとは筋金入りである。……と、感心している時間も目下のところ、ない。
そして、その時。聞き間違えようもない声が、清音の声の向こうにかすかに聞こえた。
「ねぇちょっとー。なにやってんのさ、一体」
やたらのんびりした、夏梨の声だった。
「ちょっ……頼む! 俺と夏梨を話させてくれ! 説明するから!」
ルキアが身を引くほどの勢いで、一護は伝令神機を引っつかむと怒鳴った。
三途の川に電話があって、現世の一護とつながってた……などというマヌケな事態は普通では信じがたいだろう。
でも、夏梨となれば話は別だ。
いくら妙な状況だろうが、直接自分の耳で一護の声を聞き、説明が理にかなっていれば納得する。
一護の知る夏梨は、そういう人間だ。
「虎徹副隊長っ! 僭越ながら、私もそれがいいかと思いますっ!」
「でも、死神だってバレたら……」
「もうバレておるではないですか!」
「……それもそうね」
思い出したように呟いた清音の声に、ルキアは思わず、と言った風にため息を漏らす。
「何やってんだ、清音! こうなったら隊長に電話だ!」
聞こえてくる野太い男の声が誰なのかなど、気にする余裕は一護にはもうなかった。
「ちょっと黙って小椿!……えぇい、分かったわよ! 好きなだけしゃべりなさい!」
よしっ、と伝令神機を耳に当てた時だった。あれっ? と清音の声が聞こえたような気がした。
「……」
「どうした一護っ、早く話さんか! もう1分を切っておるぞ!」
伝令神機を耳に当てたまま固まった一護に、ルキアが詰めよる。
振り返った一護は、冷や汗をだらだらと流していた。
「……つながってねーんだけど。もしかして、切れた……?」
「くそっ、圏外か!」
「あぁ? なんでそんなモンあるんだよ、ふざけんなぁ!」
「とにかく、一時的に通話が切れただけだ! 掛けなおす!」
焦りきった手つきでルキアが電話をかけるのを、一護はなすすべなく見守るしかなかった。
「……くそ、今度は通話中だ! 一体誰と……」
「ルキアさん」
「電話……ん?」
振り返ったルキアは、何かおかしい、という顔をした。
「……一護。お前、眉間の皺がないぞ」
何を言われているのか、よく分からない。真っ白になった頭をかかえながら、一護はひょい、とルキアに手招きした。
「見てくれ、これ」
腕時計を指差す。
「どう思う?」
「……17時36分だ」
「ふーん……、って、すぎてんじゃねえか! 11分経っちまったぞ!」
「お……落ち着け一護!」
「落ち着いていられるか! まさか、これで死ぬっていうんじゃねえだろうな、神様だからって人間ナメんなよ! クレームつけてやるっ!」
一護によってルキアが再び吊るし上げられそうになった時。
心臓に悪い大音響を立てて、ルキアの伝令神機が再び鳴り響きだした。